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体力オバケの呪い

体力オバケの呪い
Photo by Carlos Nunez

きっかけ

自分自身に生存バイアスというものがあるのかどうか分からなかったんだけど、けんすうさんのポストをみて少し考えを整理したくなりました。

残業キャンセルの話題、本来の話題の元は置いといて、とりあえず「仕事に時間と工数をかけるべきか?ゆったりと働くべきか?」という対立の議論だと単純化した時に、「若いうちは苦労は買ってでもしないとあとで大変。成果と経験とチャンスは複利なので取り返しがつかなくなる」という意見と

「それは生存者バイアスが効いてて危険。頑張りすぎて体や心を壊すケースも多いし、頑張っても何もならないケースも多々ある。」

みたいな意見の両方があり、両方とも納得感があります。

個別化を強くすると、結局「ケースバイケースであり、個人差があり、環境差も大きい」になってしまう話なんですよね。
「頑張りが効く体と精神を持っており、良い環境で、頑張れば頑張るほど、経験や結果、金銭など、のちに複利としても効きやすいものが手に入る」という人は若いうちには、限界まで仕事をした方が合理的になるだろうし、「体もメンタルも強くない、ダメな環境で、頑張っても誰かに搾取されるだけで大したリターンがもらえない」という人は、限界ギリギリまで仕事をしない方が合理的になる。
つまりはどちらも一般論の範疇で、N=1、つまりは「自分の場合はどちらか?」というのを見極めて判断するしかないわけですが、多くの人は判断するスキルも経験も材料もなかったりするんですよね。。

なので、これはもう信仰の話なんだなと思っています。

僕は体が丈夫というか頑丈なので無理をきかせてこれたという自覚があって、これを他者にあてはめる難しさをずっと感じ、いちど整理したほうが良いなと思いました。


体力オバケと呼ばれた日

自分にはWebエンジニアとしての師匠と思えるひとが3人います。そのうちのひとりが僕のことを何気なく、僕に向かってではなく、でも僕を指して、「体力オバケ」と呼びました。

前日にどうしても理解が難しいライブラリがあって、仕事が終わったあとも夢中でライブラリをいじくっていました。
気になることやわかったことをTwitterに書き込んだり、仕事で思い出しやすいようにメモをとったりSlackに書き込んだりしていました。
気づけば朝の3時を回っていました。
次の日(というかその日)、いつも通り9時過ぎくらいに仕事を始めました。
3時まで勉強してたやつが普通に朝から仕事を始めていて、いつも通りにしている。
そこでもらった一言が 体力オバケ だったのです。

もう何年も前のことなので正確に何を調べていたかは覚えていないのだけれど、いまの仕事の面白さにのめり込み始めた時期で、このときの情熱と学習量がいまの自分の能力を支えているのは確かです。

それまで自分は体力があるのだと気づいていませんでした。
普通にいつも通りに過ごしていて、自覚といえば「ゆったりするよりも忙しいのがすきだなあ」くらいでした。

そしてこの言葉が数年後の自分をずっと苦しめることになりました。

呪いにかわったオバケ

そんな感じで技術にのめり込んでいた日々が流れ、いつしか僕も誰かにものを教えられるくらいには知識や技術が増えました。
いろいろなひとにいろいろなことを教えましたが、いくら説明しても自分の思った速度で覚えてくれません。
この前おなじことを言ったのになとか、読んでおくといいよと教えたんだけどなとか、釈然としません。

しばらくして僕の教え方がきついと言われるようになって、はじめて自分が 体力オバケ だということを自覚しました。
時間さえあれば、2時間でも3時間でも、夢中になったら4時間以上でも、寝ずに手を動かしているのが当然ではない、と。

そして自分が周りに向ける期待値がプレッシャーしか生んでいないことを理解しはじめました。絶望でした。
とてもとても悪いことをしたと思いました。いまでもそのときを思い出すと苦しい気持ちになるときがあります。
体力オバケの呪いです。

非常に悪いのは自分と同じ量や時間を使うことを前提としていたことそのものよりも、それができないことを「やる気がないんだろう」と思っていたことです。できないではなく、やらないと認識していたことです。

これが僕がもっている生存バイアスと理解しました。


現実はどうなのか

生存バイアスで他者を見放してしまっていたことはずっと反省をしているのですが、ただ実際に、現実に、自分が頑張ってきたこと自体は否定されたくないとも思っています。体力がいくらあろうとやらない世界線あったはずです。でも僕はやってきた。

じゃあ自分が関わるこれからの人たちはどうだろうか、というとやはりそこも否定できないわけです。

それぞれに体力があるのかどうなのかは僕が知るよしもないのですが、やはり量をこなして質を身に着けた人が評価されてほしいと思うのです。
体力がないわりに頑張ったからマルあげちゃう、なんて世界ではなく。

だからそもそもどれくらい頑張れるのか?その資本をどれくらいもっているのか?というのを個々に配慮することはできなくて、その部分はすっ飛ばすしかなくて、最終的に出力が高いひとが評価されていくしかないと思う。

学習に対してコスパとかタイパの概念を持ち込むのがそもそも僕は嫌いだったんだけれど、それも体力があるから言えることなのかもしれない。
でも効率の良さと裏腹に、泥臭くひとつひとつしらみ潰しに身につけている地道さというのがそのひとの財産になると信じている。

もしできなかったり伸びなかったりするひとがいるのであれば見放さず、でも寄り添いすぎずにいるのがいいのだと思う。
体力がないのかあるけどやらないのかは区別できないし、そこに積極的なサポートをするのも常に良手とも言えないのだから。


身も蓋もない結論

と、ここまで体力の話をかいておきながら、一方でやはり楽しいからやってこれたとも思います。
コードを書いて覚えて動かすのが、シンプルに理由なく楽しいから力の限りやってこれました。

こういうことを言うと「楽しいことは体力なくても無理して熱中しちゃうよね」などという意見が頭をもたげてこちらをジッと見てきたりするのですが、それはそれとして自分にだけ向ければよろしい。
周りの誰かが悩んでいるときは「いまそれって楽しいと思えますか?」って問いかけると分水嶺として使えるのではないか、それが体力が続くならばなお幸いであると思えるのです。

結局は自分のことしかわからないもんね。